火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

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なんか正直、東京に/激務に/業種の形態に/大企業に/一人暮らしに……向いてないのは別にいい。実際たぶん向いていない。「実は向いてるのでは?」とたくさん言ってもらうけど、さすがに四半世紀以上生きてきた手触りからして、向いていないだろ…という直感がある(ちなみにニートにも全く向いていない。損だな)。

何度も言っているが(同時に自分に言い聞かせているが)そんなものは織り込み済みで、進路を変えて全然違う場で働いたり、院に行きなおしたり、フリーターしたり、フリーランスしたり、全然違う国に行ったり、まじでどうにでもなる。と思っている。
しかし。再起不能なレベルで精神を病んでしまう可能性があるのが怖い。

京都で気持ちが八方塞がりになったとき、長い時間をかけて停滞させることで、痛みをじっくりじっくり煮込んで、柔らかく、優しいものに変えてきた。そして(社会から向けられる「大丈夫か?」の目と引き換えに)本質的な精神崩壊を防いできた。逃げて逃げて逃げまくることで、ギリギリ底辺に滞留して保てていたものが、時間に追われる日々の中で、その策が取りづらくなるなかで、本当に根本から壊れてしまったらどうしよう? 私は壊れる前にちゃんと逃げられるのだろうか?

一度壊れてしまったら戻らないものもある。事実だ。

本当に行っていいのかな? それは、めんどくさいとか大変とかつらいとかのレイヤーではなくて、もういくつか下の、今の自分が描けている、穏やかでもマイペースでも、自分の/他人の表面にある凹凸になるべく沿うように生きていければいいよね、と考える自分の姿に二度と戻れなくなる可能性をはらんでいる、ということに対する恐怖だと思う(ところで、めんどくさいし大変そうだしおれは無償労働に泣いてるよ)。
精神疾患になると文字が読めなくなるとよく言うが、私のやってきたこと的に文字が読めなくなったら本当に詰む。そもそも文字が読めないほど病んでいたら間違いなく全部放り投げて休んだ方がいいのだが……

その反面、行ってみたさもあるしな。過去の事例と比較しても、今回は明確に行きたい理由がある。

どれだけ考えても行為をひっくり返すほどの熱量にはならず、「行ってみてから考えよう」的な結論に落ち着きそうで、本当に大丈夫かなあ。

 

「強者の論理」に巻き込まれることはあれど、それに慣れたくはないなと思う。特権性や暴力性。自分に備わる矛盾。そこからは逃げずに、いつも向き合っていきたい。