火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

雑談

ツユの人たちが色々と大変そうなのを見て、人と何かを作ろうとする、もっと言えば人と命運を共にしようとするのは本当に難しいよなと思った。そう、共作自体の難しさと一緒に人生を賭けようとする難しさは全然別種のものかもしれないな。

本気で人生に行き詰まったとき(一つのものに賭けようとして、それ以外が見えていないときとも言い換えられる)いったん全てを破壊する以外に立ちゆかない場面があることは肌感覚でわかる。その破壊が、長い時間をかけて自己の再生に繋がる、というシナリオもわからなくはない。

ところで、破壊に他人を巻き込むのはやめた方がいい。いや、それは言い過ぎで、巻き込んでしまうときもあるかもしれない。けれど、それをあたかも必要な犠牲であるようには語るべきではない。自分と他人の人生は等価。

破壊は自分だけでなく、少なからず他人を傷つける。自分の事情や身体はいくらでもチューニングしようがあるけれど、他人のことは直せない。他人を壊してしまうと、もう元には戻れない。たとえ自分がうまく立ち直れたとしても、他の人も同じように元の状態に戻ったり、自分のことを待っていてくれるとは限らないのだ。

どうしようもないことが確かにある。「どう頑張っても無理だった」と思い返すほかない日々が存在している。この世は時間しか解決手段がない問題だらけである(逆にいえば、自分の認識に起因する問題は時間が有用な解決手段になりうる。数々の事象に対して「あのときの自分では解決不可能だった」と思えるのは時間の効用だし、視野狭窄や認知の歪みに由来する問題はやっぱり時間が解決してくれることが多い)。でもほかのあらゆる可能性を切り捨てて、「自分(たち)の生み出しうるものこそがこの世で一番で、価値を持っている」という姿勢ひとつだけを持って突っ切ろうとするのはなかなか、自分も周りの人も痛くて、つらいと思う。

自分の人生と同じぐらいの価値をもって、たくさんの人々の人生が並行している。気の遠くなる事実。当然だけれど、他人の人生を自分の好きなように変えることはできない。難しいな。だからこそささいなことでも共鳴したとき、これ以上ないほどうれしく感じるんだろうな。

余談だが、少なくとも今はもう痛すぎるのは嫌だと思うフェーズなので、色々に対してうまく身を反らしてしまうこともある。痛くて絶望したときにしかわからないことも当然あるけれど、痛すぎると全然進めなくて本当にダメになっちゃうから、ゆるしてほしい。制作的には(?)(人道的にも?)ゆるされないかもしれない。

毎度毎度、あんまり上手く書けなくて嫌だな。文章も継続なのかもしれない。結局。