火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

9月末〜10月はじめ①

最近の動向を1つずつ書くとネガティブな話から始まってしまうのですが、①以外はポジティブな話なので、ごめんなさい… これ以外にもたくさん書きたい話があります。

(あと、このブログにわざわざ来る人にちらっと伝えたい程度の話なので、誰が見ているかは分かりませんが、拡散はしないでもらえるとたすかります)

小沢健二(以下、健ちゃん)のライブ(もとい、講演)に行った。健ちゃんが関心のある種々の学問分野に関する講義2時間余+ライブ数曲という構成だった。私は健ちゃんについてあまり事前情報を持たずに(数曲知っている程度)行ったが、健ちゃんはあきらかに頭脳明晰で、普段からよく勉強をしているようで、大層話が上手だった。

率直に言えば、健ちゃんの態度が自分の肌に合わなかった。演奏は素晴らしかったと思う。

人間の行うものごとのソフト面(notハード面)が気に食わないことって自分のなかではあまりない(その人の方向性は尊重されるべきで、そこからいかにクオリティを上げるか? のほうに目がいく)ので、今回はなぜだろう? と結構長い時間をかけて考えた。
結局、個人的な感情を省けば、以下の2点(+α)が原因な気がする。

・自らの興味関心に従って「横断的に広く浅く学問の話をする」というのが今回の講演のスタンスだったが、おそらく研究をしたことのない健ちゃんがどういう立場から話しているのかがわからず、全体的にうさん臭く感じてしまった。最初に自分の学問的立場(在野で主に〇〇の分野の論文を読んでいる、などでもよい)を明確に話してほしかった。もし私の知らんところで研究実績があるなら話してほしかった。研究者と自分の関係とか、互いの立場に関する考え方、リスペクトなどが聞きたかった。ある意味(排除を意味するわけでは決してないが)「よそ者」である健ちゃん自身のスタンスを明確にしてほしかった、ということかもしれない。

広く浅く学問の話をすると、話の流れに沿って複雑な問題を恣意的に切り取ることが可能になってしまう。そういう点にひっかかったのではないか。

・少なくとも、学問のような繊細かつ誤解を生みやすい内容を扱うにあたって、ビジュアルデザインを大量に用いる姿勢に懐疑的になってしまった。やはり、学問に対してビジュアルデザインを使う危険性に対する考え、注意があってほしかったと思う(健ちゃんはさすがにその点について絶対に考えているはずだ)。音響効果もそう。講演内、懐疑的な内容の文言に対して、サラウンドで音声を回すなどの効果が用いられていた。そもそも音楽という表現手法は、感情や情景を、ありのままの状態から誇張して伝達する性質がある。音響効果はその主たるものだ。なんというか、講演全体から、扇動といえば大袈裟かもしれないが、アジテーション的な姿勢を少なからず受け取ってしまった(これには健ちゃんの話術の巧みさも少なからず関連している)。
すくなくとも今の私は、芸術(的な演出)と学問は切り離して考えるべきなのではないかと思っている。でも、それもちょっと過言な気がしていて、う〜ん。

(・ライブ前/後、公の場での注意など公式な声明を行わず、スタッフ等からの直の連絡(それも説明不足で、乱暴に受け止められかねないもの)によって方々の記事を差し止め、ファンの動きを制止するような行動をとるのはどうかと思う。この動きは主催者側からの要請ではなく健ちゃんの意思に基づくものらしく、それならその理由を説明してくれないと納得できない)

 

う〜〜〜ん。でも、違和感について、数人の友人と話しつつ考え続けて、自分の思考がかなりクリアになったのはよかったかな、と思う。

こういう意見を述べている人がTwitterをみても本当にあまりいないので、私が彼の話を聞き漏らしてるとか、かたよっているとか、不勉強とか、(あるいはファンダムが強固すぎるとか)そういう話もあるかもしれない。すみません。

なんだろう、データを扱い、解釈づけをする、身近な物事と結びつける、といった行為にあたって「慎重さ」を欲している。健ちゃんは話題を自由自在に飛び回っていて、まあそれも一つのスタイルだよなあとは思う(あり方としてはだいぶ憧れている)。学生に対するトピック・興味関心の提示としては十分だったかもしれないが、やっぱりあの講義を「最高の授業」として信奉するのはちょっと違うのではないか、という気持ちになっています、今。

研究者との対談形式でもよかったのでは? と思う。まだいろいろ考えたいことが出てくるのかい、あんなに考えたのに。

バイト遅刻する! 行きます。

PS.遅刻した。