火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

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「そういう人もいる」

言葉の定義を決めてしまうと、次回この言葉を使ったときに「この人、そう思ってるんだ」と一義的にとられかねず、やりづらい。あくまでも「最も頻出しそうな使われ方」であって、用いる際には当然ここに書いていない感情も含まれうること、かなりの数の例外が存在することを明記しておく。

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そういう人もいる。

不可侵領域に触れられそうになったとき、咄嗟に出てきそうな言葉だと思った。

自己防衛、その場にいる誰かを防衛するための言葉。コミュニケーションをとりたくないわけではない。「これ以上この話をすると、本当は話せるはずだったほかの話を話せなくなるかもしれない」と思ったとき。具体的にいえば「これ以上この場でその話題を取り上げると、誰かが/私が傷つく可能性があるよ」と思ったときに、ひとまず場をとりまとめる言葉として便利だ。傷つくためにも覚悟が必要だ。生身の状態で話すときは、せめて薄布一枚は噛ませたい。

「その話題を今扱うかどうか」は、タイミング、場所、その場に集う人の雰囲気、価値観の偏り、話し手の配慮の多寡、コミュニケーションの型などで変動する、流動的なものだ。深入りせずに議題提示にとどめることが、結果的に場のとりうる可能性を広げることになる状況もある。

とりわけ、多人数の場ではそういう場面が生じやすい。自分の場合、多人数の会話の場で、異なる意見をぶつけ合う行為があまり得意ではない(お互いを過度に攻撃しない、みたいな共通了解があれば、見ている分にはおもしろい)。コミュニケーションの基盤が[共感]にあり、頭の回転もあまり早くない自分は、見る専に回りがちだ。

意見や価値観は、たいていの場合、その人が生きてきた固有の経験に基づいているし、度重なる思考を経て形成されたもので、センシティブな領域にまで根づいている。その結論が(他人の発言によって、その場で)根底から覆されることは滅多にない。人生一人分の重みを持った他人の価値観を頭ごなしに否定したくない。でも、それと同時に、自分の価値観を否定したくはない。そのために、「あなたと私は違う」という線引きが重要になる。

私自身は、分かち合えない感覚や価値観に対して、部分的にでも共感し、理解したいと思う。でも、自分にとって大きな意義をもつ根本の価値観が決定的に異なるとき、「そういう人もいる」が最善の答えになることもある。それは「テメーとおれとはここが違うが、まあ、お互いいい感じにやっていこうな」という、相手に対する了解でもある(また、相手と自分とはコミュニケーションの型が異なると判断したとき、あらかじめ不可侵領域への防衛線を張っておくことで、互いを不必要に傷つけないようにすることもできるだろう)。

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価値観の越境を図るコミュニケーションを取る力はある意味才能だと思う。自分の中に新しい価値観が流れ込む瞬間は尊いし、価値観を開示する行為自体が勇敢だと思うから。私もいろいろな人のいろいろな話から、たくさんのものを受け取ってきた。自分と異なる価値観をもつ人の意外な共通部分に驚いたり、異なる部分から新たな洞察を受け取ったりする瞬間が好きだ。

そんなコミュニケーションにおいて大切なのは、尊重の姿勢(全部分が、もしくは根本的な価値観が無根拠に否定されない、という安心感)だし、だれしも無意識に人を傷つける可能性を孕んでいることの自覚だと、私は思う。自戒でもある。