火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

きのみ乱獲隊

拝啓

 

お元気ですか。

 

今年は秋がとっても短くて、いつの間にかコートやらマフラーやらを引っ張り出している自分がいました。

それなのにまだ息が白くならないことを、一段ともどかしく感じる今日このごろです。

 

本当は、この野原に、焼きどんぐりを焼いたり、葉っぱを踏んだりする場所を設けて、盛大にお出迎えするつもりでいました。私一人だけでなく、心置きなく会話のできる友人を数人呼んで、一つ二つの催し物もする気でいたのです。

でも、私の段取りがあまりにも悪かったせいで、どんぐりはたったの3粒しか拾えなかったし、方方探し回って見つけた小さく形のよい葉っぱも、強く吹く風のせいで乾ききって、パリパリになってしまいました。

さあ、その後どうなったのか。パリパリサラダのパリパリの部分だけが大好きで、緑の部分をよけてあまねく食べ散らかしていた子どもの頃。その幼い面影を宿したままの私の手は、知らぬ間に小さな葉っぱの数々をすべて砕いてしまったのです。

人様を粗末な家に気軽に呼びつけてはならない、と何度も念押ししていた母の姿が脳裏に浮かびました。この1ヶ月間、荒涼とした野原の切れ端を、私は呆然とした顔で眺めるばかりでした。

 

そうこうしているうちに、会場とされた土地にはブルーシートが敷かれ、土台が組み上がり、みるみるうちに、無垢のベニヤ板が横たわる、一人では持て余すぐらいのお立ち台が出来上がりました。

もはや、そうこうしてはいられなくなりました。だから、春先に作っていた曲とビデオをどうにか完成させて、こちらに置いておくことにします。

ノーベンバーフェスティバルには程遠い、滑稽なほど神妙な様子を写した、長回しのビデオです。一見退屈なビデオかもしれませんが、衝動的な風景を繋ぎあわせるばかりの無粋さや、静かでいびつな佇まいの音像に、私は少なからず愛着を覚えています。

 

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「淡々と日が落ちて、すぐに日々が遠ざかるのを見ているうちに、過去の自分は死んでしまったのではないか、と思うようになりました。

昨日の自分は死んでしまったのも同じです。きっと、そうだと確信しています。

そして、死んでしまったほかの誰かの積み重ねが、今日の自分となっている。

そのほかには何もない、まっさらな地平のなかで、生と死の営みが延々繰り返されている。

そう考えるようにすると、すこしやりきれないような、すこし救われるような、そんな気持ちになります」

 

ーーそれもまた、遠い春の軒先で、聞いた話でした。きんと冷えた甘い麦茶のグラスが、薄く結露する季節でした。

今、私は、死んでしまったほかの誰かの考えたことを思い出して、思い出したままに書き写しています。

なにも考えずに書写をするのは、光なんて通さないはずの心の淵が、一瞬だけ透き通る感じがして、嫌いではありません。

 

でもね。今日この場にいる私は、正直、この手の話にあまり同調できません。

この人の言っていることを、覆したいとさえ思います。

大層な理由なんてありません。直感です。この人がまったく趣の異なる話をしていても、覆したくなったのかもしれません。

ただ、なんとなく思うのです。この人が今、私の知らないどこかの街で生きていてほしい、と。

今の気分で、無神経に、生きていればいいなと思っています。それだけです。

 

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まったく、取るに足りない話をしてしまいました。

 

あと1ヶ月で今年も終わるそうです。

最後に、ティーバッグを1つ同封しておきます。

3粒拾ったどんぐりの、小さな小さなかけらが一粒だけ、入っています。あとは、その辺の干し草をいっぱいに詰めました。

なかなかどうしていい味がします。何より、温まること、この上ありません。

 

どうか、この先もお気をつけて。

 

敬具