火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

3/4-02

人生は陸続きだから、もうすっかり変わってしまったと思う人にだって昔過ごした時間の片鱗がかくれていて、「これはおかしい」とか「もう関わらない方がいい」とかいう言葉では片付けられない。でも、いまこの一瞬に関して、諦めなければいけないと感じることもある。

持続的な関係性に嵐は起きない。その対岸に、一瞬だけまばゆく光る関係性がある。
瞬間的な関係性は、ひときわ強い光を放つから魅力的だけれど、その分破断の危機を秘めている。

徐々にわたしたちは、一生が長いこと、持続的なもの、続いていくものであることを分かりはじめている。だから、この一瞬だけいいような顔をしていても仕方がない。永く続く関係性を紡いでいくためには、お互いに配慮しあったり、時には遠ざかったりして調整を図る必要がある。でも、結局死ぬ間際の走馬灯に映るのは、あの一瞬のまばゆさであるだろうという予感もある。でもあの一瞬はやはり刹那的なもので、わたしたちは過ぎ去る。抗えないのだ。

こんなにつらいことはできるだけ早く忘れてしまいたい、と思う日々があった。時間はほとんど永遠に感じられた。死とは停止であり、それこそ自分をとりまく時間が永遠に停まったように感じられた。

でもって、あとひとかけらを残して忘れてしまいそうになると、それはそれで悲しくなる。

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「救い」ってなんだろう。
救いたいと思うわたしたちが、救いの意味を独りよがりに定めることはできない。かといって、救われたいわたしたちが求める「救い」はきまって不定形で、言語化することのできない曖昧なものだ。

最近思う。救おうと思って誰かを救うことはできない。

救いが実現するとすれば、それこそすれ違いざまに渡した/あるいは放った/あるいは置いておいた何かしらを誰かに拾ってもらい、それを受容してもらうプロセスである。そこにわたしたちの本心は間接的にしか寄与せず、受容する人びとの受け取り方にすべてかかっている。

救おうと思って救えるものではない。それを前提に、あらゆる行為をなすようになった。

わたしたちが救い(わたしたちがつねに元気であると考えるのはあからさまに過信だけれども)、そして救われるためには、手を差し出して待っていることしかできない。

結果的には、医療や治療、休息なども含めて、拠り所を増やしていくというのが近道なのだ、というありふれた結論に落ち着く。

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誰かを救う(救えたと実感できる)経験は強烈で、それゆえ引力がある。わたしなんかにでも人が救えるんだと思えてしまうし、人の運命を握っているような心地さえ覚える。でも実際は、他人様の人生をまるきり背負うことはできない。支え合うことしかできない。自分の力なくしては、人生は変えられない。それは残酷だとも思うし、自律的であるとも思う。

 

こんなことが書きたくて書き出したわけではない気がする。でも、このわからなさをわたしは残しておきたいと、そう思った。