火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

2021.4.1

昨年も載せましたが、おととしはこんなことを思っていたらしい。

 

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桜の季節はヤバい。

三月終わり、河川敷はもう葉桜の色合いになっていて、風が吹くたびにふわりと花びらが散り、足元に小さな渦を描く。

無機質そうな街をこんな桃色まみれに塗りたくった挙句、眼前で花が舞い踊るわけだから、そりゃ人間風情が少しくらいおかしくなったってしょうがないだろうよ、と思う。

自然色という暴力。実際には春夏秋冬、それぞれ等しくヤバいのかもしれないが、「桃色の木」という不可思議な存在が立ち並ぶこの季節は、なにかを駆り立てる力が強すぎていつも前のめりになる。「桜」なんて名前すら、今の私には必要のない。

 

春は別れの季節。出会いの季節。始まりの季節。

親しい友達は今年ほとんど卒業してしまった。新天地へ向かうひと。新しいことを始めるひと。始まるひと。桃色の軌道。

 

私こそが人類の中でいちばんヤバい、と思った。低い軌道を描いて4月に着地した。茫然自失。身に覚えのない日々が山積している。顔向けできない思い出しかない。本当に顔向けできない。前、仲のいいお友達に「あなたは重い荷物があればえいやっとぶん投げて、手ぶらで歩いて、なんだかんだ前方に着地させてしまうタイプの人だ」みたいなことを言われた。たぶんそれで合っていて、鞄の中ではデパコスのアイシャドウが砕けて、全部真緑になっている。

 

平等を具現化したような春の日差しが照りつける。川の対岸の石垣に、長く伸びた私の影が映る。私みたいな人間が広々としたステージに一人立っていて申し訳ありませんね、といきなり卑屈になって、前屈みに歩いた。

桜の季節がヤバいのは、たとえ何もなくても何か始まるような、全能感というか、超人めいた思想を抱かせる点において、である。私は実際毎年同じような感情を抱いては、夢破れる若者の顔をし続けている、気がする。

 

平等を具現化した日差しは、まだ日は落ちませんことよ、と語りかけた。うるせえ! 時間があればあるほど考えてしまうのに。手を太陽に透かす。何もない。清々しいほど何もない。

誰かの人生に不調な時期だ、とか間違えてる、とか言うことは存外簡単で、幸せそうだとか、運が悪いとか、個人の尺度でしか測れないことも、言っちゃだめだと思うのにすぐ口をついて出てしまう。

この冬は、春の写真を撮って上から描き足していたのだけど(比喩ではなく本当に)、そうするともっと本当めいた春を作れるのと同じで、私たちは今見える風景を、今見せている絵を、おしまいにならないように少しずつ上から描き足していく。小さな刺青をもっと大きな刺青で隠すように。ケロイドのように盛り上がった絵の具は傷ではなくて私たちの生の軌跡だ。

 

さくらももこのマンガで「いつ(人生の)道を踏み誤ったのだろう」みたいな自虐ネタがあって、真面目な小学生の私は一コマずつ漫画を読み返して、道を誤っているシーンを探して、「ないじゃん!」って怒っていた。いつだって道を誤って、いつだって軌道が逸れて、それが答えになり、日常に溶ける。無理して答えを出せないその姿こそが答えだと友人が言ってくれたことは、3月の救いだった。

 

何を言いたいのかいつもわからない。わからんよ、そんなもん。

ともかく、卒業おめでとうございます。旅立っていくひと。新しいことに飛び込むひと。今まで通り生きるひと。柑橘類のように眩しくて、あまい。

私は誰かの後ろ姿を見送るのが好きだ。どこかへいく背中をぼーっと見ているのが大好きだ。

 

いつもの京都で、なんの意味もない4/1を迎えた。

ここに錨のない船が浮かんでいるのか、錨のない船の上に〈ここ〉を措定しているのか。それもよく、わからない。

今ここにいるのは、いつか一人で旅立つための前日譚なのかもしれぬ…と思いつつ(ポジティブすぎる)その時は笑って手を振れたらいいな、と心にもないことを書くわけです。