火にくべる

火にくべてしまいたい日常の機微

3/4-01

文意を把握するのは得意で、文章を書くのはどちらかといえばそれ以上に得意かも、なんて思っていたけれども、いつからか(多分22歳を過ぎたあたりで)自分の文章がコンプレックスになった。いわゆる「お利口さんな文章」、きれいな文章しか書けない。だれかに「あなたは読みやすい文章は書けるんだから、もっとこう、人の心を掴める文章を書けるようになるといいよね」と言われて、本当にそうだね、と思っていた(たんなる読書量の欠如かもしれない)。

いい文章が書けるって、いい目線をして生きているということだ。
大きなことを語らずとも、ともすれば瑣末にも思える生活のあれこれや自然の草花、自分の身体感覚を拾い上げて、見つめられる人たちのことを私は信頼しているし、ずっとそのまま、元気でいてほしいと思う。

対して、自分の文章はとんでもなくつまらない。おそらく、読み手に普遍的な身体感覚や風景をすっ飛ばして、自分の書きたいことを書いているからだ。発想の飛躍も著しく、極度に私小説的な文章に着地している(あってる?)。単純に世界の風景を通して、自分のことをずっと考えている、エゴイストなのだ。まあでも、そういうふうに書きたいのだからしょうがない。ここはあくまで自分のための集積場だから、そのスタンスは崩さずに書き続ける。

でも、やっぱり、うまい文章を見ると、私もそういうふうに居られたらよかったな、と思ってしまう。結局目の前の出来事に、自分なりの言葉で、誠実に応えられているかということ。

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いまふと急に、ほんとに京都を離れるんだという実感が出てきて、涙が出た。

いろんな人と出会って、いろいろな話をした。
つらいこと、至らないこと、こうすればよかったと思うこと、たくさんたくさんあったけど、大好きな友人、尊敬できる友人、かれらのやさしさに触れられて、支えられて、ギリギリやってこれた。

流れ流れて流れていくこの日々のなかで、いま仲のいい人々、いまはもうあまり会わない人々、一瞬でも心からふれあえたことがとても嬉しい。これからの拠りどころになるに違いない。できればこれからもずっと、そんな瞬間が続いてほしい。

やばい。めちゃくちゃ泣いてる。

悲しい、でもしょうがない。そう。しょうがないと思う。

わたしたちは互いに互いのことを、意図しない方向に行ったり、間違えたり、行き先を見失ったりしながらも、どうにかこうにかやってきて、ちゃんと生きてきた、そんな様子を見つめあっていたんだということを、ずっと覚えていたい。